近代建築の名作を調べていくと、元麻布に「旧阿部美樹志邸(きゅう・あべみきし・てい)」があります。一見してさすが名作という建物ですが、阿部美樹志さんて、いったい誰なんだろう。実は大正から昭和に活躍した鉄筋コンクリート工学の開祖です。大正期のアールデコです。それが分かると「名作度」が上がるような気がします。
神宮前―青山―赤坂―六本木―麻布(JAARA)は歩くだけで楽しい街。目的があれば歩くのがいっそう楽しくなりますね。
※ JAARA(ジャーラ)は[神宮前―青山―赤坂―六本木―麻布]の街の連なりを指す造語です。
§ 大正末の雰囲気を伝える装飾
旧阿部美樹志邸は元麻布の中心、麻布十番から暗闇坂を上りきった辺りにあります。
竣工は1924年といいますから大正13年、関東大震災の翌年です。
立派な邸宅です。フェンスや、建物の前面に装飾が施されています。1910年代から1930年代に流行した「アールデコ」なのでしょう。
§ コンクリート博士
阿部美樹志さんは、日本の鉄筋コンクリート工学の開祖。通称「コンクリート博士」と呼ばれている日本の建築史に欠かせない足跡を残した人物なのでした。
建築関係の記事でよく見かけるRC構造(RC造)の建物を多数造りました。RCとは英語の「Reinforced-Concrete」、鉄筋コンクリートのことです。
1983年、岩手県一関市生まれ。札幌農学校で土木工学を学んだあと鉄道院で働き、米国、ドイツに留学。米国でも学位を得ましたが、日本でも1920年(大正9年)に「鉄筋混凝土」の理論と実験に関する研究で工学博士となりました。「混凝土」は「コンクリート」のことです。
農学校の先輩で東京帝大教授、「港湾工学の父」と呼ばれた広井勇さんとの関係から浅野セメントの創業者浅野総一郎さんと知り合い、浅野さんを通じて、阪急・東宝グループの総帥・小林一三さんとも繋がりを持つことになりました。(参考:阿部美樹志とわが国における黎明期の鉄道高架橋 小野田滋さん)
鉄道院時代には大阪市内の環状高架線も含めた国鉄(JR)高架橋、南海・近鉄高架線を手掛け、小林一三さんと出会ったのは1920年。同年に鉄道院を辞職して個人事務所を開設し、旧阪急梅田駅、阪急ビル、阪急梅田ビル(阪急百貨店)、阪急西宮スタジアム、東京の日比谷映画劇場、有楽座、東宝劇場などを手がけました。(参考:大阪文化財ナビ)
日比谷映画劇場は空に伸びるタワーがあり、アールデコのデザインの建築の典型例ともいわれます。デザイナーとしても優れていたのですね。
戦災復興院(現国土交通省)の総裁や、建設院総務長官(建設事務次官)などを歴任するほか、竹中土木や東洋セメントの社長を務め、専修学校設立に携わるなど、土木、建築の分野における官界、実業界、教育界で縦横無尽に活躍した人物だったのです。
§ 坂の交差点近くのモダンな住宅
このような経歴を知って眺めてみると、建物は黎明期のRC構造だったのね、装飾は大正から昭和初期の雰囲気なのね。なるほど!と思えてきます。
ここから暗闇坂をさらに行くと、一本松があります。ここは、暗闇坂、大黒坂、狸坂、一本松坂の交差点。大黒坂の下りスロープを見渡すと、台地の先端であることが分かります。
大正期にはすでに、周囲に大きな邸宅がありましたが、この建物は、界隈にひときわモダンな印象を与えたことでしょう。
§ 旧阿部美樹志邸のまとめ
現在はお住まいの人がいるようなのですが、数々の本で紹介され、グーグルマップでは「史跡」とされていることもあり、外から拝見させていただきました。日本の建築の歴史を想起させる建物に感慨を覚えます。きょうもいい一日になりそうです。
【 JAARAで散歩】これまでの「建築を見る散歩」
▽現代日本の建築を見に青山通りを青山から赤坂へ
▽澄み切った空気を思い出す 大正・昭和の洋館を見に麻布へ
▽昭和初期の自由な空気を伝える現役の住宅 麻布台の『和朗フラット』へ
▽デザイナーズマンションの先駆けを見に 神宮前の「ビラ・ビアンカ」へ
▽建築界の巨匠、槙文彦さんの作品を見に 青山・麻布へ
▽競技場からお菓子屋さんまで 大物建築家・隈研吾さんの作品を見に青山へ
▽ヴォーリズの東京の建築を見に 東洋英和女学院へ