【 JAARAで散歩】「有名人」がここに立っていたと想像してみる 麻布十番の『善福寺』さんへ

         


 
 麻布十番商店街を抜けたところにある『麻布山 善福寺』さんは、長い歴史に有名人が去来するお寺です。弘法大師、親鸞、タウンゼント・ハリス(初代米国公使)。その人たちがここに立っていたのだなあ、と想像すると奇妙な感じになります。麻布十番はぶらぶらしていて楽しいところ。その道すがら、立ち寄ってみるのはどうでしょう。
 神宮前―青山―赤坂―六本木―麻布(JAARA)は歩くだけで楽しい街。目的があれば歩くのがいっそう楽しくなりますね。
※ JAARA(ジャーラ)は[神宮前―青山―赤坂―六本木―麻布]の街の連なりを指す造語です。
 

§ 開山は弘法大師・空海さん

 善福寺さんは浄土真宗本願寺派のお寺ですが、もともとは真言宗の開祖、弘法大師・空海の開山といいます。
 

麻布山善福寺は、平安時代の天長元年(824年)、唐に渡り真言を極めて帰国した弘法大師によって、真言宗を関東一円に広めるために高野山に模して開山されました。都内では金竜山浅草寺につぐ最古の寺院といわれています。(善福寺のHP:善福寺の歴史

 824年というと、空海さんが少僧都(しょうそうづ)として僧綱(そうごう)に入った年、つまり、僧侶として国家の高級官僚になった年です。そのころの空海さんはものすごく忙しかったと思うので、ほんとにここへ来たのかなあ、とも思います。
 真言宗の関東への布教の拠点ということです。ではなぜ、布教の拠点をこの地(現在の元麻布)にしたのでしょうか。

§ 布教の拠点は交通の要衝?

 これについて考察した記事に出会っていないので勝手に想像してみると、当時、この辺りは交通の要衝だったのだと思われます。
 神護景雲の時代(8世紀)の東海道は、三浦半島から房総半島へ船で渡って先へ進む道筋でしたが、延喜式の頃(10世紀)には東京湾岸を通る現在のようなコースになったのだそうです。
 

『新修港区史』(1979年刊)83ページより転載。


 神護景雲段階の東海道 (767-770ごろ)(デジタル版『港区史』)
 
 『延喜式』段階の東海道 (927ごろ)(デジタル版『港区史』)
 
 その頃、この辺りは東海道の沿線で、相模国と常陸国の中間に当たります。東海道から分かれて南へ行けば下総から上総、安房へ。武蔵の国府を通る道を北へ行くと東山道に出るので下野、上野へ、と広範囲にアクセスがよかったのだと思われます。

§ 弘法大師さん、杖で地面を差す


 
 お寺の勅使門の前に湧き水があります。「柳の井戸」と呼ばれています。この湧き水は、弘法大師さんが杖で地面を差したら湧いてきたともいわれています。
 おそらく水は、弘法大師さんが来る前から湧いていたのでしょう。水が湧くので人が集まり、だんだんと集落ができ、集落があったのでお寺の建設地になったのだと思います。
 とはいえこの際、ここに「弘法大師が来て杖を差したのだ…」と想像してみます。
 奈良時代の日本人の平均身長は男性が163センチ、女性が152センチ程度と推定されているそうです。
 ちょっと小柄な弘法大師さんが、つるつる頭で袈裟を着て、上の方に輪っかが付いている杖を「えい!」と差すところを思い浮かべると、今もわだかまる霊気を感じます。
 

§ 親鸞さんも、杖で地面を差す

 時は移って鎌倉時代。弘法大師さんが開いたお寺がなぜ浄土真宗になったかというと、ここへ親鸞さんが来て、親鸞さんの教えを聞いたご住職が宗旨変えをしたそうです。
 

鎌倉時代になると、7歳で仏門に入り弱冠17歳で比叡で顕密二法を修めた俊英の僧であった麻布山善福寺の了海上人(「大谷遺跡録」に名が残る関東六老僧のひとり)は、流されていた越後から京に上る途中に訪れた親鸞聖人の高徳に傾倒して、一山をあげて真言宗から浄土真宗に改宗しました。(善福寺のHP:善福寺の歴史

 親鸞さんが地面に差した杖に根が付き葉が茂ったといい、それが現在も生えている「逆さイチョウ」です。
 杖を地面に差したのは「凡夫が往生するのだから、杖も木になる」という意味だったようで、それが証しされたわけです。
 「逆さイチョウ」は墓地の境内にあって写真撮影は御遠慮ですが、その前まで行くことはできます。
 

 
 東京都の説明板には次のように書かれています。

 この木は雄株で、幹の上部が既に損なわれているが、幹周りは一〇・四メートルあり、都内のイチョウの中で最大の巨樹である。樹令は七五〇年以上と推定される。
 善福寺は、昭和二〇年の東京大空襲によって本堂が全焼した際、このイチョウの木にもかなり被害があったが、いまなお往時の偉観をうかがうことができる。
 根がせり上がって、枝先が下に伸びているところから『逆さイチョウ』ともいわれ、また、親鸞聖人が地に差した杖から成長したとの伝説から『杖イチョウ』の別名もある。

 「根がせりあがって」とありますが、茎から根が出る気根(きこん)なのでしょう。
 国の天然記念物に指定されています。
 国指定文化財等データベース (善福寺のイチョウ)|文化庁
 
 杖から根が生えたかどうかは別として、鎌倉時代に親鸞さんがこの地にいたのは確かでしょう。
 鎌倉時代の男性の平均身長は159センチ、女性は145センチと推定されているそうです。なんで奈良時代より低いかというと、仏教が盛んになって肉食をしなくなったのが原因という説が有力です。
 現在の木の姿を見ながら、そのむかし、笠をかぶり、数珠を手にした親鸞さんが、杖を「えい!」と地面に突き刺すところを想像します。鬼気迫るものがあります。
 

§ ハリスさんにとっては不名誉な話


 時は移って幕末です。墓地の前の大木の根元に、タウンゼント・ハリスさんの碑があります。初代米国公使です。1856年、安政3年に伊豆の下田に到着して領事館を開き、日米修好通商条約が締結されて公使に昇格。1859年、安政6年に公使館を善福寺に置きます。
 どうして公使館が善福寺になったのか詳しい記事を見ていないので勝手に想像すると、善福寺は、鎌倉時代には皇室と、江戸時代には家康、家光などの将軍と関係があったお寺だそうなので、幕府や有力者が仲介したのかもしれません。
 
 ハリスさんというと、相手方の女性として「唐人お吉」が有名です。下田時代の話です。しかし、ハリスさんは当時病気で看病の女性が必要だったそうで、「その手の女性」を求めたようではなさそうです。ハリスさんにとっては不名誉なお話のような気がします。
 1862年、文久2年に辞任する時も体調が悪かったようです。
 彼が日本に滞在したのは年齢が51歳から57歳の頃。お寺の境内を、長いひげを生やした初老の男性がフロックコートに身を包み、少し前かがみで病身を引きずるように歩いているところを想像すると、哀愁が漂います。
 

§ 麻布山善福寺のまとめ

 善福寺さんについて『新修港区史』は「戦国大名にも匹敵する勢力を持った」と記述しています。中世の貴重な史料を所蔵するお寺に、アメリカ合衆国公使館が明治8年までありました。時代のうねりを感じさせる歴史を持つ場所があるものですね。きょうもいい一日になりそうです。
 
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