【 JAARAで散歩】表参道の通りが火の海になった過去の歴史を振り返る

         


 
 ファッショナブルなビルが立ち並ぶ表参道は、かつて焼夷弾の絨毯爆撃で火の海となり、多くの人が惑いさまよった後、遺体が道端に並ぶ惨状を呈したことがありました。交差点の一角にある「和をのぞむ」のモニュメントは、戦災の記憶を後世に伝えようとしています。交差点の周囲には歴史の痕があるようでした。
 
 神宮前―青山―赤坂―六本木―麻布(JAARA)は歩くだけで楽しい街ですが、過去には悲しい歴史があります。時にはそれを思い返すのがいいのかもしれません。
※ JAARA(ジャーラ)は[神宮前―青山―赤坂―六本木―麻布]の街の連なりを指す造語です。

§ 山の手空襲

 1945年の3月9~10日の「東京大空襲」の後も首都への襲撃は続き、5月25日から26日にかけての空襲は赤坂、青山が標的となったため「山の手空襲」と呼ばれています。この時、表参道周辺は悲惨な被害に見舞われました。
 

 
 表参道交差点には一対の灯ろうがあります。台座の一部が欠けているのは焼夷弾が当たったためで、全体に黒く変色しているのも当時の被害によるとされています。
 

 
 並木のケヤキの木もほとんどが焼失し、生き残った木と後から植えられた木では太さが違うといわれていたようです。しかしそれも、時がたって分からなくなりつつあるのではないでしょうか。
 

§ 「和をのぞむ」の碑

 表参道交差点の一角、みずほ銀行前の近くに2007年1月、追悼碑「和をのぞむ」が建てられました。
 

 
 碑文にはこうあります。

 太平洋戦争の末期、昭和二十年五月、山の手地域に大空襲があり、赤坂・青山地域の大半が焦土と化しました。
 表参道では、ケヤキが燃え」、青山通の交差点付近は、火と熱風により逃げ場を失った多くの人々が亡くなりました。
 戦災により亡くなった人々を慰霊するとともに、心から戦争のない世界の平和を祈ります。
 港区政60周年にあたり、この地に平和を願う記念碑を建立します。
 平成十九年一月
    港区赤坂地区総合支所 
    区政六十周年記念事業実行委員会

 たいへんな惨劇なのでした。
 
 当時の様子の証言を集めた『表参道が燃えた日』と『続 表参道が燃えた日』という本があります。
 

 
 これを読むと、現在のみずほ銀行、当時の安田銀行の脇には、黒焦げの遺体が山積みになっていたという証言があります。
 
 一帯では焼夷弾が次々と落ちて火炎と煙と熱風が生じ、代々木の練兵場や明治神宮には多くの人が避難しましたが、そこを目指したものの行く手を阻まれた人がたくさんいたようです。
 燃え盛る青山通りを突っ切って、青山墓地まで逃げた人の証言もありました。
 現在のキャットストリートはまだ暗渠になる前の「隠田川」で、そこに飛び込んで助かった人もいたとのことです。

§ 「山陽堂さんに助けられた」

 当時からあった書店、山陽堂さんに逃げ込んで難を逃れた人もいました。「山陽堂さんに助けられた」という証言があります。山陽堂さんはその後、道路の拡幅で建物が削れましたが、かつての場所に建っています。谷内六郎さんの大きな壁画があります。
 

 
 その隣の善光寺さんに避難した人もいたことでしょう。善光寺さんでは毎年、犠牲者の追悼法要が営まれています。
 

 
 境内には「戦災殉難者諸精霊供養塔」と刻んだ塔が建ち、側面には「昭和二十五年五月二十五日 為大東亜戦争青山周辺戦災殉難者」とあります。

§ 総仕上げの空襲

 5月25~26日の空襲は「山の手空襲」と呼ばれますが、皇居や東京駅の丸の内駅舎が焼失するなど罹災は広範囲にわたり、首都での無差別空襲の総仕上げともいえる空襲でした。
 『表参道が燃えた日』によると、5月26日朝のラジオの「大本営発表」は次のようでした。
 「昨夜22時30分ごろより、B29約250機帝都市街地に対し、焼夷弾による無差別爆撃、恐れ多くも宮城、大宮御所に被害。三陛下、賢所は御安泰にあらせられる」
 この時飛来したB29は約250機ではなく、約500機だったようです。
 
 6月からは地方都市への爆撃が始まったのでした。
 
 東京大空襲 – Wikipedia
 東京駅の歴史 – Wikipedia

§ 表参道の戦災のまとめ

 原子爆弾や東京大空襲による惨状は広く伝えられていますが、それと同じような惨劇がいろいろな場所で起きていたのでした。何事もなかったように整然と美しく続く街並みが、かつては別の様相だったことを思い浮かべるきっかけになりました。きょうもひとつ、何かを得ることができました。
 
【 JAARAで散歩】これまでの「神宮前で散歩」
▽原宿・表参道の歴史と広がりをたずねて 神宮前交差点へ