西麻布は大使館が多いところです。同じ通りに3カ国が建つ「大使館通り」もあります。なぜ大使館が多いのでしょう。むかしはどんなところだったのかにヒントがありそうです。長い歴史とそれぞれの文化を持つお国柄を思い浮かべながら大使館を眺めてみてはどうでしょうか。
神宮前―青山―赤坂―六本木―麻布(JAARA)は歩くだけで楽しい街。目的があれば歩くのがいっそう楽しくなりますね。(2023.02.12)
※ JAARA(ジャーラ)は[神宮前―青山―赤坂―六本木―麻布]の街の連なりを指す造語です。
§ 仏教国に50の民族
六本木ヒルズ脇のマクドナルドからテレ朝通りを南麻布の方へ向かい、心臓血管研究所病院の先の信号を右に曲がると、通りに沿って3つの大使館があります。ラオス、ギリシャ、ルーマニアです。南側へ回り込むとウクライナ大使館もあります。
最初に左側に見えるのが「ラオス人民民主共和国大使館」です。
1955年に外交関係が樹立し、大使館が開設されたとのこと。立派な建物です。(Wikipedia「駐日ラオス大使館」)
710万人の国民は50の民族からなっているそうです。人口の6割以上が上座部仏教(小乗仏教)を信仰しているという仏教国です。
ラオスを紹介する動画がありました。「ラン・ヴォン」というダンスが紹介されています。
§ デンマークから来たギリシャ国王
少し進むと「ギリシャ大使館」があります。
建物の外観は地中海の風を思わせ……ないかな。ギリシャには3,000を超える島があり、そのうち200以上に人が住んでいるそうです。
建物の上の方にギリシャの国章が設置されています。
国章は変遷しているそうです。歴史的にいろんな王様が来たからのようです。この国章は、デンマークから来たゲオルギオス1世の時に、デンマーク風になったとのことです。(どこがデンマーク風だか分かりません。 ギリシャの国章 – Wikipedia)
ゲオルギオス1世(1845-1913)は、デンマーク国王クリスチャン9世の次男。ギリシャの前の国王はちょっと変人で野心もあったらしく、国民によって打倒されました。その後、ギリシア政府と列強の意向によって、1863年にゲオルギオスさんが17歳で国王になりました。優れた人物だったようです。
彼の四男、アンドレアスさんの長男が、英国エリザベス女王の夫のフィリップさんです。つまり、ゲオルギオスさんはエリザベス女王の義理のおじいさんです。
日本とギリシャは1899年に国交が始まり、第二次世界大戦で中断しましたが戦後に回復しました。ギリシャは大戦後の内戦と軍事独裁政権時代を経て、1974年に王政廃止と共和制移行が決まりました。
1974 Greek republic referendum – Wikipedia
Greek Republic Referendum Held Today On 8 December 1974 (greekcitytimes.com)
§ 長い歴史と多様な国土
さらに進むと「ルーマニア大使館」があります。
ルーマニアは長い歴史を持つ国です。紀元前からドナウ川流域に民族が居住し、ローマ帝国の領土となり(ルーマニア=ローマ人の土地)、遊牧民族に支配され、中世から近代はロシア帝国、オーストリア帝国、オスマン帝国に圧迫され、第二次世界大戦後はソ連に圧迫されました。
1878年ルーマニア王国が成立、大戦後に王制を廃止し、1947年にルーマニア人民共和国が成立しました。(ルーマニア – Wikipedia Romania – Wikipedia)
国章は中世にあった3つの公国、ワラキア、モルダヴィア、トランシルヴァニアなど、ルーマニア各地の歴史を引き継いでいるようです。
§ もとは高級マンション?
南の方へ回り込むと「ウクライナ大使館」があります。
マンションのような外観です。30年前と20年前の地図を見ると、以前は民間マンションだったようです。
その物件紹介が「高級・外国人向け」の不動産サイトに残っていました。「現在テナント募集中の空室はございません」と記載されており、所在地の地図を拡大すると「ウクライナ大使館」と表示されました。
大使館の玄関両側には、退役軍人を支援するイラストボードが掲げられています。サイト内の記事「戦時下のウクライナの人々の思いを感じに 西麻布のウクライナ大使館へ」もご覧ください。
ウクライナは1991年、ソビエト連邦の崩壊に伴い、独立して新たな国家ウクライナとなり、同年、日本との外交関係が樹立しました。
§ なぜ大使館が多いのか
現在日本にある約150カ国の大使館の半数以上が港区あるそうです。なぜ港区に大使館が多いのでしょう。その答えが港区のHPにある「港区には大使館がいっぱい!」という記事に書いてあります。
「明治維新後、政府は旧大名家から没収していた屋敷の跡地を大使館用地として各国に提供しました。このような経緯により、大名屋敷が多くあった港区に大使館が集まったのです」
というわけです。
「大使館横丁」のあたりはむかしどんなだったのでしょう。上に紹介した4つの大使館のある区域は、文久2年(1862年)の地図を見ると、「内藤因幡守(ないとういなばのかみ)」のお屋敷になっています。
この内藤家は磐城国(いわきのくに)湯長谷藩(ゆながやはん、現在の福島県)の藩主の家です。
第4代藩主の内藤政醇(ないとう・まさあつ)は、映画化された小説『超高速!参勤交代』のモデルになっています。
この区画は明治9年(1876年)には「畑」になっています。この時点で、湯長谷藩の最後の藩主、内藤政憲(ないとう・まさのり)さんは、元の屋敷の東側、「内田豊後守」の屋敷があった一角に引っ越しています。維新で様相が変わったのでしょう。
大名の上屋敷は幕府から下げ渡された拝領屋敷(はいりょうやしき)だったので、明治維新後は江戸城などと共に明治政府に接収されました。跡地は官庁や大学となり、外国の公館になったところもありました。
昭和8年の地図では、この一角は「ソビエット商館」となっています。日本で「商社」が多く現れるのは日露戦争後の明治末期といい、初期には「商館」を通じて貿易をしていました。広い敷地内にロシア人がたくさん住んでいたのでしょう。そんな経緯もあり、跡地に大使館横丁が出現したと思われます。
何気なく大使館が建っている土地にも、歴史的な変遷があるのでした。
§ 西麻布の大使館のまとめ
大使館といって目につく看板が出ているわけでもなく、イタリア料理店のように大きな旗が掲げられているわけでもないので、気づかず通り過ぎてしまいそうです。けれど、ちょっと気を付けて大使館を眺めてみて、土地の歴史を思い浮かべてみるのもよいものです。きょうもいい一日になりそうです。
【 JAARAで散歩】これまでの「西麻布で散歩」
◇西麻布の味わい深い焼き肉屋さん『胡同』さんへ
◇おいしい上質の焼き鳥を食べに 西麻布の『一歩』さんへ
◇戦時下のウクライナの人々の思いを感じに 西麻布のウクライナ大使館へ